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分岐D: 刺青編

  • いきなり変態が出てきます。
  • なんかもう、妄想だけは楽しかったよ。
  • 思ったより絶望ルートじゃなくなったよ☆



(嫌われたかな……)
 ここのところ心を占めるのは、そのことばかりだった。
 あのメールを送って以後、ロンからの返事は途絶えていた。
 夏休みに入ってしまったこともあり、毎日図書館に通うことは出来無くなってしまったが、隙を見ては足を運んでいた。
 ロンだけが知っているアドレスは、今日も何の動きも無い。
 ウェブメールからログアウトして、あてもなくページを開いてみたが、すぐにつまらなくなって電源を落とす。
 そのまま帰ろうと、椅子から腰を上げた時、落として暗くなったモニタに人の姿が写っているのに気付いた。
(利用者?)
 他のパソコンも埋まっていて、空くのを待っているのだろうか。
 そんな風に考えて振り変えると、金の長い髪をたらし、麻のサラっとしたジャケットを着た大人が立っていた。
 一瞬女の人かとも思ったが、体つきの感じは男に見える。
 席を譲ろうと体を左に寄せると、男は進路を体で阻むように立ち塞がった。
「?」
 怪訝に思って見上げると、整った顔に酷薄そうな笑みを浮べるのが見えた。
 ムッとしてそのまま歩を進めようとすると、男が無遠慮に間を詰め、首に手回して抱き寄せられた。
 指に髪が絡んだのか、チリッと痛みが走り眉を寄せ、抗議の声を出そうとしたところを阻まれる。
「藤堂紫安君?」
 耳元で囁く声に鳥肌が立つ。
 思わず後退って出来た間を更に詰めて、腰を抱くように腕を絡めてきた。
「お友達からのメールを待ってるの?」
 ドクン、と心臓が高なる。
 どうして知っているのだろうかという疑問よりも、こいつは危険だという警戒ばかりが高まっていく。
 どうにかして逃げ出さないと……。
 その気持ちを逆撫でするように、耳元で低く抑えた笑い声がする。
「君のお友達がね、君に会いたいそうだよ」
 フェイクだ。
 ウェブメールのページを開いていたのを見てカマをかけてるだけだ。
 知らぬ顔をするのを面白がるように、わざと耳元で笑って言う。
「おや……信じていない?」
「知らない大人を信じるほど、子供じゃねぇよ」
 突っ撥ねる答えも愉快だと言わんばかりに浅く息を零すように笑うと、左手を髪に絡めてくる。
 それを払い退けようとした時、意地の悪い声で確認の問いを向けられた。
「君のお友達の名前はロン君だろう?」
 一瞬、息が詰まる。
 あの日の別れの時のロンの顔が脳裏を横切った。
 どことなく、寂しそうに笑って手を振っていたあの……。
「劉九龍。あの子が君を呼んでいるよ、藤堂紫安……いや、しゃんどぅ君」
 反応せずにはいられず、顔を上げて眼差しで問うと、気味が悪いほど整った顔の男は、満足そうに口元を歪めた。
 それらが、何故か遠くに感じる。
「ついてきてくれるね、しゃんどぅ君」
 確認の声が遠くでするなと思った後、急に暗いところに落ちたように意識が途絶えた。


 何か夢を見ていた気がする。
 重い頭に手を当て、閉じていた瞼を開ける。
「気がついたかい?」
 間近でする声に驚き、跳ねるように体を起そうとすると、肩を固定されていることに気付く。
 見れば、ソファの上で男に凭れるように眠っていたらしい。
「突然気を失なったのでね、運ばせてもらったよ」
 そんなことがあるわけ無いと反駁するのをぐっと堪え、自分が置かれている現状についてを把握することにつとめる。
 やけに広く、暗い部屋だった。
 ソファの下には毛足の長い絨毯が敷かれ、ローテーブルにはリモコンと酒らしいものが置かれている。
 暑くも寒くも無いということは、徹底した温度管理がされているということだろうか。
 情報らしい情報があまり無いことに、内心で舌打ちする。
 男はその様をじっと見詰めては、悦に入っている。
 何故そんな目で見られるのかわからず、困惑と嫌悪が高まっていく。
「ふふふ、いいね。嫌いじゃないよ」
 ねっとりとした視線から逃れようと身動ぐと、闇の中で誰かが動くのを感じた。
 そちらに視線を向けると、隣りの男はより一層楽しそうに笑みを深める。
「そうそう、君に会わせるんだったね」
 テーブルの上のリモコンを操作すると、急に部屋が明るくなった。
 眩しくて細めた視線の先……。
「あ……」
「会いたかったよ、しゃんどぅ」
 そこにいたのは、あの日、あのテラスで一度だけ出会った……。
「ロン」
 隣の男が立ち上がり、それに促されて立ち上がる。
 ロンはにこにこと懐こっい笑みを浮べて、少し離れた場所に立っている。
 素直に喜んでいいのかと躊躇うのは、自分がここに来た経緯があるからだ。
 こんな再開の仕方はとても不自然だ。
「ふふふ、しゃんどぅ君……キミは強いかな?」
 困惑している状態で、促されるままに移動したところで、背後から両手に肩を置いた男が耳元で囁いた。
 手を伸ばせば屆くぐらいの距離で、向き合うロンを見詰める。
 目の前にいるロンとあの時のロンが同じ人物だとは思えないのは何故だろうか。
 たった一度しか会ったことが無い。
 あの時の自分の状態も普通とは言い難かった。
 そのせいだろうか?
 勝手に作り上げた想像が、本物を認めようとしないのだろうか。
「ロンはね、強い子が好きなんだ」
「……え?」
 ロンがニヤリと唇を歪める。
 その表情に、違和感を強めて思わず身構える。
「しゃんどぅ君、ロンの遊び相手をしてあげて」
 トン、と背を押されたと同時に、ロンが一歩踏み込んでくる。
 咄嗟に避けたのは、本能か。
 腕を掠めたのは、ロンの指先で、引っ掻いたような蚯蚓脹れが残った。
「な……にっ……」
 状況が把握できないうちに、次が来る。
 肩に強い衝撃を受け、バランスが崩れたところに蹴りが飛ぶ。
 膝に鈍い痛みを感じるが、そちらを見ている余裕は無い。
 ロンは冷めた笑みを浮べて、更なる蹴りを繰り出してきた。
「…………」
 こちらが抵抗を見せなくても平気で攻撃してくるのを見る限り、このまま何もしないで居れば一方的にやられるだけだろう。
 自分には攻撃する理由が無いが、ロンにはある、ということだ。
(……いや、ロンじゃない)
 そっくりではあるが、何かが違う。
 あの日、心配そうに声をかけてきたあの子とは違う。
 覚悟を決めて重心を少し落す。
 仕掛けてくるのに合わせて踏み込み、鎖骨目掛けて掌底を繰り出す。
 咄嗟に避けてみたものの、攻撃してくるとは思っていなかっただけに反応が遅れた相手の左肩に重く一打を浴びせることに成功した。
 間髪を置かずに開いた体に体当りするように身を当て、そのまま足を凪ぐ。
「くっ」
 流石に深くは食らわずに、距離を置いて相手は体制を立て直す。
 喧嘩とは違う体の使い方に、もう反撃の機会は無いだろうなと諦める。
 何らかの武術に基づいた動きをしているため、ある程度次の攻撃の予測が可能なのが幸いか。
 しかしそれは、決定的なダメージをいきなり喰らうことだけは避けられる、といった程度の幸だが……。
(武術は何も知らないからな……)
 思う間もなく、攻撃が来る。
 低い位置から頭部を狙っての突き上げる蹴りを躱すと、足首を後ろから掴まれて引き倒される。
 そのまま倒れれば、頭部にダメージが来るのを、身を捩って回避する。
 肘が床を擦って、熱いような痛みが走る。
「……つ」
 転がったころに、踵が降ってくる。
 それをモロに右肩に食って、目の前が白く爆ぜた。
 衝撃を受けた肩にそのまま足を乗せ、ゆっくりと嬲るように体重を乗せてくる。
 靴と床に挟まれた骨が軋む。
 左手を足首にかけて抵抗するも、ロンに良く似た子どもは勝利を確信してか、体重を乗せたまま顔を近づけるように屈んで言った。
「随分と無言なんだね。もっと派手に泣いたり喚いたりしてよ」
 流暢な日本語にはっとする。
 疑惑は確信へと変り、思考のすみに残っていた躊躇を消し去った。
 踏まれたままの右肩を軸にして、半身を捩り、相手の首に足をかける。
 バランスを崩して右肩が少し自由になったうちに、両手で足首を持って捻り上げると、相手は両手を床につき、バネをきかせてこちらの体を振り払うと同時に、自由なほうの足で右肩に鋭い蹴りを入れて手から逃れる。
「チッ……まだやるんだ」
 舌打ちしつつも、楽しげに言う。
「色々規制があってやりにくいんだけどな……」
 ぼやきの意味はわからない。
 けれど、好戦的な性格であることはうんざりするほどよくわかる。
 自分の体の節々の痛みから考えて、もうロクに抵抗はできないだろうと思う。
 だが、大人しくされるがままにされるのは嫌だった。
「リュイ、遊ぶなよ」
 投げられた声に、男がまだいたことを思い出す。
 リュイというのがこいつの名前だろうか。
 相手の動きだけ追っていた脳に、様々な疑問が沸き出し、雑念が多くなる。
 それを見てリュイは薄らと笑い、急激に回転し勢いをつけ、右足を高く突き出す。
「……ぁ」
 声も無かった。
 強烈な上段横蹴りを胸に受け、意識と体が飛ぶ。
 ああ、また暗いところに……。
 痛みすら感じず、意識が暗転した。


 覚醒は急激だった。
 鋭い痛みが何度も繰り返され、傷ついた場所を圧迫される。
「い……っ」
「あ、気がついたみたい」
 頭上で声がしてぎょっとする。
 起き上がろうとして、寝かされていることを知る。
「今、いいところだから……暴れないで」
「?」
 胴の上からする声に目を向ければ、金髪の男が覆いかぶさるような格好で、体に目を這わせている。
 何か品定めするような目付きで、じっとりと目を細める男の視線に鳥肌が立つ。
 衣服を脱がされていることに気づいたと同時に、空気の動きすら感じるように皮膚感覚が鋭敏になっていく。
 手を動かそうとして、頭上で腕が纏められていることがわかった。
「な……に……?」
 喉か渇いて上手く言葉が出てこない。
 今まで感じたことの無い恐怖が胃を締めつける。
 吐きたいような気分になりながら、男から目を背けると、頭上から見下ろしてくるロンと同じ顔の子どもと視線が合った。
「さっきは痛かった? 骨は折れてないみたいだから、安心して」
 セリフとは違い、残念だという気持を含んだ声音に寒気がした。
「羅が目立つ傷はつけるなっていうから、難しくてさ」
 ツッと胸元を指先で触れられ、上段蹴りを食らった部分に鈍痛が蘇える。
 バラバラになっていた記憶がゆっくりと定着し、現実を知らしめるように浸透していくのを感じて、思わず顔を顰める。
 あくまで現実に引き留めようとする自分の脳がうらめしい。
 こちらを観察するように眺めながら、リュイが鎖骨の下へと指を動かし、一点を軽く突いた。
「……っ」
 擦傷を直接触られたような痛みに体が強張る。
「ごめんごめん」
 面白そうに言いながら腕を引き、自分の服の襟元を広げて見せる。
「それは、ボクの印」
 広げられた胸元の鎖骨の下。
 丁度リュイが触れた部分と逆の位置に、藍にも似た色で何か図形が刻まれているのが見える。
 龍の型なのだろうか。
 柔らかそうな皮膚の上に、暗い色で刻印されたような模様は、酷く禍々しいもだと感じるのに、リュイはとても嬉しそうに、誇らしそうにそれを見せ付ける。
「ボクはこれだけだけど、羅がキミには沢山くれるって」
「意味……わかんねぇ………」
 それに何か意味でもあると言うのだろうか。
「藤堂が隠していたとは思わなかったな」
 男の言葉に心臓が大きく打った。
 自分の中に長い間蓄積された「何故」の一端を知っているのでは無いかと、気持ちが上ずりそうになる。
 問えば、答えてもらえるのではないか……。
 しかし、それは開いてはいけない扉を開くようでもあったし、信じていい相手なのかという不安も浮かぶ。
 惑わせるつもりだけなのではないか。
 葛藤が心を引っかき、小さな傷が表面をささくれ立たせる。
「今日は取り返しに来たんだけど……キミはなかなか面白いから、もう少しだけ待ってあげよう。だから、これは約束の印」
 二の腕の内側に何かを突き立てられる痛みが走る。
 反射的に動こうとするのを、リュイの手が抑えて固定された。
 そう深くは無いところに細かな針が何本も刺さり、真っ直ぐではなく少し跳ねさせて抜かれる。細かく何度も刺されるうちに、そこにじんわりと色が入って型取られていくのがわかる。
「花を集めておいで」
 手を止めて、男が言う。
「リュイと同じように、印が入っている子を、集めておいで。そのためのヒントを体に刻んであげる」
 言っている意味がわからない。
 この男は一体何を知っていて、何をさせようとしているのか。
 じくじくとする痛みは、刺されたばかりの腕からだけでなく、体の左側を中心に脳に刺激を送ってくる。
 男の手が下り、脇腹に同じ痛みが走り、身を硬ばらせる。
 シャキシャキと金属が擦れる音と同時に、肌に痛みが生まれる。
「そうだな……キミにはやっぱりこれが似合うかな」
 熱に浮かされたような声色で呟いた男が、ゴムに包まれた指先で左鼠蹊部を撫でた。
 物心ついてから誰かに触れられた記憶の無い場所に触れられて、羞恥で顔が熱くなる。
 身動ごうにも、腿の上に男が座っているので動けない。
「……っ」
 男の手が無情に動き、肌に針が刺さる。
 一針ごとに刻まれていく色に、涙が出そうになる。
 それは、痛みによるものではなく、成す術無く一方的に施される屈辱によるもので、零さないように耐えることでしか、抵抗の意を示すことが出来なかった。
「なんなんだよ、お前ら……っ」
 全ての憤りをぶつける言葉に、男はうっすらと笑う。
 あの、図書館で最初に見た、酷薄そうな笑み。
「これは、ゲームだよ。キミたちと私たちの、ね」
 針が刺さる。
「ゲーム?」
「そう、ゲームだ。キミたちが強ければ、私たちに勝てる。そんな単純なゲームだよ」
「意味、わかんね……っ」
 会話中も手を休めない男を睨もうとして、自分の体に刻まれていく印を見てしまう。
 それがあまりにも、自分の心を代弁しているかのようなもので、屈辱感が更に増す。
「謎解きは自分でしたほうが面白いだろう?」
 色を拭き取るために布で擦られる。
「ヒントもあげるし、招待状も送ろう」
「招待状?」
「そう、キミを解放して上げる」
「解放?」
「藤堂から解放してあげよう」
 欲しい答えは返ってこず、困惑を深める単語だけが増えていく。
 意味を探ろうとしても、探るべきものの型を知らなければ何もできやしない。
「次に目を醒したら、君は藤堂から逃れられる」
 作業の終りを示すように、男が腿の上から降りる。
 それを目で追いながら、腕が自由になったことに気づき、身を起すが、刺激に抵抗するために力を入れていたためか、酷く怠く重い。
 左側から伝わる痛みが不愉快だった。
「今日会ったことは他の人には秘密だよ」
「次に会う時は、もっと強くなっててね」
 リュイが男の側に寄り添い、小さく手を振る。
 同じ顔なのに随分印象が違うな、と、頭のどこかが思う。
 なんだか、酷く疲れた。
 とても眠い。
「おやすみ。次目覚めた時は、楽になってるよ」


 寝苦しさに寝返りをうち、眠っていたことに気がついた。
 嫌な夢を見て魘されていた気がする。
 寝具が汗でしっとりとしていた。
「……あれ……?」
 月明かりの差しこむ部屋はいつもの場所ではなく、祖父母の家に泊まる時に与えられるところだった。
 寝間着も、祖父のところに泊まった時に着る、ゆったりとしたワンピースのようなものだ。
「?」
 祖父の家に泊まっただろうか?
 記憶を遡ろうとして、とても曖昧であることに気付く。
(図書館で……ロンからのメールは無くて……)
 その後のことが思い出せない。
 まさか、図書館で眠ってしまったわけじゃないだろうな……と思い、何気なく見た左手首にゾッとした。
 一枚の花弁が散っていた。
 藍よりももっと、赤味がかった一片の花びら。
 恐る恐る指で触れてもそれは落ちず、擦っても消えはしなかった。
「な……んだ……?」
 それがとても忌しいものに思え、右手で左手首を強く握る。
 何故それが、忌しいのか。
 震えが来るほどに。
「なんなん……」
 呟きは爆発音で途絶えた。
 慌ててベッドがら飛び降り、走り出す。
 いつも両親が泊まる部屋には誰の姿も無い。
(……一人で泊まったのか……?)
 疑問がわいたが、小さな爆発が続く音で意識を引き戻す。
 祖父母の部屋に行き、ドアノブを回そうと手を伸ばしかけ、ドアが開いていることに気づいた。
「お爺様! お婆様!」
 ドアを開けて言葉を失う。
 部屋の中が酷く荒れていた。
 倒れた本棚から本が無造作に散らばり、引き出しは全て引き出され、その中のものをぶちまけられている。
 割れた窓。
 そして、正面の大きなベッドには、動かない固まりが二つ。
 頭上で赤い光りが明滅するのは、危険だと本能が報せているのだろう。
 わかっている。
 逃げなくてはならないことは、わかっている。
 だというのに、足は惨状の上を進み、動かない固まりに近づいていく。
「お爺様……」
 自分の声とは思えないほど、不安げで頼りない声が零れた。
 就寝時に祖父がいつも着る細かいストライプの寝間着を、その固まりは着ていた。
 もう一つの固まりは、花柄の寝間着を……。
「……お婆様」
 揺っても二人は身動ぎすらしない。
 呼吸の音すらしていなかった。
 死んでいるんだ。
 そう確信して、ノロノロと後退る。
 散らばった本に足を取られて、尻餅をつき、予想せず見上げた天井に刻まれた赤い文字を見て、息が止まる。

 ーーこれで楽になったろう?

「……なん……」
 脳の暗い部分にチラつく金の髪。
 酷薄そうな笑みを浮かべたのは、誰だったか。
(……なんで、思い出せないんだよ!)
 歯噛みしながら、這うようにして部屋を出る。
 何か。
 何かとても重要なことを忘れている気がする。
 部屋を出て、壁に手をつきながら歩を進める。
 足元が揺れているのは、気のせいなのか、それとも先程の爆発音のせいなのか。
「紫安様!」
 突然名を呼ばれて顔を上げると、祖父母の家で使用人をしている老人の顔があった。
 いつもなら黒いスーツで身を固めているが、今は生成りの作務衣を着ていた。
「ヤマダ……」
「ご無事でしたか、さあ、急ぎましょう」
「急ぐ?」
 問いに答えはなく、手を引かれて駆け足でついていく。
 踊り場まで来ると、浴場のほうから熱気が立ちこめていることがわかった。
「火事?」
 走りながら尋ねると、ヤマダは「左様です」とだけ答えて走り出した。
 階段を駆け降り、浴場とは逆の温室へと走る。
 硝子戸を抜けて夜空が見えた時、再び大きな爆発音が鼓膜を叩いた。
 身を竦めて振り替えると、屋敷から火の手があがるのが見えた。
 火の手の影響が無いところにある車庫まで走り、肩で息をしながら地面に座り込む。
 屋敷の外に野次馬の声が聞こえる。
 じきに消防車も来るだろう。
 呼吸を整えようとつとめていると、ヤマダが跪き、視線を合わせて言った。
「紫安様、警察に何か聞かれた際には、寝ていたとだけお答えください」
「どうして」
「どうしても、です」
 理由もわからず同意しろというのはとても納得できることではなかったが、いつにも増して真剣な眼差しに押される。
「……わかった。約束する。その代り教えて欲しいことがある」
「私がお答えできることなら」
「どうして、オレはここに居るんだ?」
「先日、気を失った状態でこちらに」
「先日? 誰が?」
「三日前に、旦那様がお連れになりました」
「三日前!?」
 三日間もの記憶が……否、もしかしたらそれ以前から無いかもしれないという、得体の知れない恐怖が沸き上ってくる。
 図書館以後途切れた記憶。
 覚えの無い手首の刺青。
 脳裏にチラつく金髪の男。
 夢の残滓のような頼り無い記憶が更に、焦燥感を煽る。
 そして、あの文字。
 ーーこれで楽になったろう?
 誰に向けての言葉なのだろうか。
 どういう意味なのか。
 何かを感じるのだが、それが何かはわからない。
「クソッ」
 小さな罵声は消防車のサイレンにかき消された。


 警察の取調べは案外簡素なものだった。
 どうやら外部の犯行説が有力なようで、質問内容も外部の誰かについてのものがほとんどだった。
 両親が迎えに来るとすんなり帰された。
 ヤマダに礼を言いたいと言ったが、まだ取調べの最中なので、と断わられた。
 両親はぎこちない笑みを浮べて、迎え入れ、警察に頭を下げた後、無言のまま車へ乗り込む。
 何も訊かないことが気持ち悪かった。
「紫安」
 暫く経って、母が名を呼んだ。
「あなたにね、推薦入学の話があってね。お母さん、いい話だなって思うのよ」
「お父さんもそう思うよ。中等部からの入学が普通なんだそうだが、優秀な生徒は早期入学制度があって……」
 しらじらしいなと思いなら、嬉しそうな顔をつくる。
 そんなに都合の良い話など、作らなければあるわけがない。
 祖父の視線を思い出す。
 たぶん、自分は祖父の我侭で育てられたんだろう。
 窓に視線をやり、乱れた自分の襟元に気付く。
 左の鎖骨の下。
 その部分に、花びらの型を認めて目を見開いた。

「藤堂が隠していたとは思わなかったな」

 声がした気がして息を飲む。
 最近、誰かにそう言われたことがあったのではなかったか……。
 曖昧な記憶がチカチカと、意識の下のほうで小く明滅しているようだ。

「ヒントもあげるし、招待状も送ろう」

 服ごと鎖骨の下をきつく掴み、記憶に無い男の声にじっと耐える。
 曖昧な記憶。
 祖父母の死。
 焼け落ちる屋敷。
 不自然な推薦入学の話。
 これが、招待状なのだろうか。
 両親の声が遠くでする。
「行ってみたいな、そこに」
 途端に溶ける、両親の緊張に小く嗤う。

「謎解きは自分でしたほうが面白いだろう?」
 知らない男が耳元で囁く。
(そうだな)
 飼われてるだけよりは、ずっといい。
 そこに望まない何かがあったとしても。
(知らないことで翻弄されるよりはずっとマシだ)

 それが、誰かの思惑通りだったとしても。


END