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 しばらく無言で夢中で天ざるそばを食べた。味わうというにはがつがつした動きだったが、
山羊がようやく一息ついたのはお腹がいっぱいになって再度お冷を飲んだ後だった。
「おいしい」
 まだそばが少し残っている。これもゆっくり味わって食べる。ことり池まではここから
ならすぐだ。山羊が元気を出してうきうきしていると、不意にカウンター席の前の調理場に
調理着を着た男が一人現れた。
 蟹とは違って、温厚だが物静かなたたずまいの四十男だった。じっと山羊を見ている。
山羊が自分に向けられた視線に気付いて緊張しながらぺこりと頭を下げると、男はそこから
微笑んで山羊が店員に預けた水筒をカウンターにおいてくれた。
「ようこそ。食べに来てくれてありがとう。そばは美味しかったかな」
 山羊はなんとなく、雰囲気からこの男が店主の牡牛だと気付いて肩の力が抜けた。こくり
とうなずくと牡牛の目尻が垂れて顔がさらに優しくなった。
「はい。すごいおいしかったです」
「そうか、よかった。乙女さんから電話をもらってあるんだが、ここに来るまでに何か
困ったことはあったかい」
「いいえ」
「うん。ならいいんだ。おじさんは他のお客さんにそばを出さなきゃいけないんでもう引っ込む
けど、何かあったらいつでも声をかけてくれていいからね。ことり池まであとちょっとだから
がんばって」
「ありがとうございます」
 牡牛は言葉少なに笑ってうなずくとまた厨房のほうへと戻っていった。この男が言うと
”がんばって”という言葉も嫌味に感じない。優しい人なんだなと山羊が思っていると店の
中がそれまでよりも明るくなってカウンターの上のそばを鮮やかにした。山羊が窓の外を
見ると、雲が駆け抜けたねずみ色の空の端から太陽が雲を切り、空が一気に白く色を抜いて
いくのが見えた。



 店の外に出ると曇っていた景色が一変して辺りが明るくなっていた。雲を押していた風が
林道の山羊にも吹いてくる。林の中にも上から小さな葉や季節外れの枯れ葉がひらりと舞い
落ちる。
『ことり池・川田植物園 この先1km』