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 絵を描いている男の左目は義眼であった。子供の山羊の言い方で言えば、「右目が動いて
いるのにこっちだけ動いていない目」。描写対象の池に向ける表情はすっきり透徹して美しい
印象すらあるのに、全体の動きの中でついていけずに眼窩にとどまっている左目の存在だけが
どうにも不自然に見えた。
 悪いものを見た気がして、山羊はつい顔を横にそむけた。それがまたちょっと遅かった。
「こんにちは」
 声をかけたのは男のほうだった。気さくな声が響く。山羊がびっくりして、視線を男の
胴体あたりにそらしながら「こんにちは」と返事をすると、男は山羊の声から緊張ぶりを
感じ取ったのか苦笑して目を伏せ左目を手で隠した。
「ごめん。びっくりしたか。これならびっくりしない?」
「あ、いや……ごめんなさい」
「いや、こっちこそごめんな。左目が作り物なんだ。いつもは色眼鏡かけてるんだけど、
絵を描くときは外させてもらってる。……勘弁してもらえるかな?」
「も、もちろんです」
 男は山羊のこわばった返事をまた鼻先で笑った。左手を下ろした男の顔を再度山羊が見て
みると、だんだん男の顔にも見慣れてくる。左目の義眼以外は誰にでも開かれた印象のある、
どこにでもいそうな普通の男だった。
「坊や、お母さんやお父さんとはぐれてないか。大丈夫かい」
「いや、僕は一人できたんです」
「へえ。どうやって?」
「おじさんの家が神社で、そこから歩いてきました」
「へー! 神社の子か。そりゃすげえな。結構歩いたんじゃないか?」
 山羊はうなずきながらリュックを握り締めた。
「いっぱい歩きました。……おじさんが絵描くの、見ててもいいですか?」
「うん、いいよ。お兄さんって言ってもらえるとうれしいけど」
「お兄さん? ……まあいいや。じゃあお兄さんっていいます」
「許されたんだ。まあいいや」
 男は苦笑しながら絵筆を遊ばせ、肝心の絵描きをしばらく忘れたようだった。
「いや、お兄さんも一人で来たからさ。名前きいてもいい?」
「山羊です。お兄さんは?」
「俺は射手。ここには毎年来てる」
「え? ……ごめんなさい、僕も結構来てるけどお兄さん見たことないや」
「射手って呼んでもらえたらうれしいよ。山羊」
「射手さん」