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ここにいるのは、本当に自分の弟なのだろうか。同性の恋人というのも信じがたい話だけれど、好きでもないのにキスをするという感覚はもっと理解できない。
蠍は平然として、朝食を取り続けている。
これは放っておいてはいけないと思った。兄として、見過ごしにはできない。
濡れた手を拭いて、蟹は蠍の正面の椅子に腰を下ろした。
「その……蠍。お前にはお前の考えがあるんだろう。だけど兄さんは、好きでもない人とそういう交際をするのはよくないと思う」
「相手は僕のことを好きだって言ってる」
「あんな男はどうでもいい、お前の気持ちだ!」
思わず声が大きくなった。蠍が視線を上げ、抑揚の欠けた口調で言った。
「仕方ないんだよ。僕の好きな人は、そういう交際はしてくれないから」
「……蠍」
「それどころか、その人は僕を恋愛の対象に入れてない。すごく優しいけど、それだけなんだ。……だったら、しょうがないじゃないか。僕を好きで、甘やかしてくれる人と付き合って、何が悪い?」
返事ができなかった。蠍の言うことには一理ある……ような気もする。自分の思いに応えない相手よりも、自分に愛情を注ぎ大事にしてくれる相手を選ぶ方が、場合によっては幸福になれるのかも知れない。
蟹は額を押さえてしばらく考えた。蠍は黙って食事を続けている。
「なあ。蠍は、す……好きな相手に、告白とか、しないのか?」
「……聞いて、どうするつもり?」
「いや……俺もまだ、考えがまとまってないんだ。でも兄さんは、できるだけお前の力になりたい。好きな相手に好きになってもらえたら、それが一番いいことだと思う。だから橋渡しとか相談に乗るとか、それが無理でもせめてお前の愚痴を聞くぐらいのことは……」
蟹は途中で口をつぐんだ。蠍が顎をそらして笑い出したせいだった。
「何がおかしいんだ」
「だって……兄さんが……いやだな、まったく……」
とぎれとぎれの言葉は意味をなさない。蠍は笑い続ける。聞く者の気持ちを不安にさせるような、どこかいやな響きの笑い声だ。それがようやく止まった時には、蠍は指で目元を拭っていた。
「ああ、苦しい。笑いすぎて涙が出たよ。兄さんが、恋愛の相談に乗るだなんて……大学に入っても彼女の一人もいなくて、弟と一緒に秋祭りに行こうなんて人が」
「なっ……!」
事実を指摘され、蟹の頬が熱くなった。
「告白はしない。相手を困らせるだけなのがわかってるから。……ご馳走様。おいしかったよ」
蠍が椅子を引いて、立ち上がった。さっきまでの笑い声とはまったく違う、優しい声で言葉を継ぐ。
「明日の秋祭り、一緒に行こうね、兄さん。魚とさっき約束した。……覚えてる? 昔、魚が転んで、綿菓子を泥だらけにしちゃったこと」
「忘れるもんか。あいつ、水で洗って泥を落とそうとして、綿菓子が全部溶けて大泣きしたんだ」
「兄さんが代わりを買ってやったんだ。おまけに魚だけじゃ不公平だって、僕にも一つ買ってくれて」
「魚のヤツ、泣いてたのが嘘みたいにニコニコしてたな。お前も喜んでくれたし……」
思い出話に頷いて、蠍は静かに微笑した。
「昨日は心配させてごめん。でも大丈夫。僕は絶対に、兄さんを困らせるようなことはしない」
おにいちゃん、おにいちゃんと慕い、自分の上着の裾をつかんで、どこにでもついてきた──そんな子供の頃の蠍を思い出す、無垢な笑みだった。
蠍が登校していったあと、蟹は一人で考え込んだ。まだ高校生の弟は、誰に対してあれほど一途に秘めた恋心を抱いているのだろう。見当もつかない。
(久しぶりに兄弟三人で秋祭り、か……)
もう魚は、綿菓子を落として泣きじゃくりはするまい。けれど蠍は、あの頃には知りもしなかったはずの鬱屈を抱えている。そして自分は蠍の秘密の一端に触れてしまった。
子供の頃に戻れたらいいのにと思った。綿菓子で、弟達が屈託なく喜んでくれるなら、どんなにいいだろう。
蟹は溜息をついた。
聞こえるはずもない祭囃子が──賑やかな響きの底に哀調を帯びた笛の音が、どこか遠くから流れてくるような気がした。

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以上です。長くてすみません。