幻想の湖は、その時々によって面立ちを異ならせる。
朝霧の沸き立つ初夏。
紅く大きい月を水面にたたえる、秋の夜長。
なにより最も美しい情景とは――湖畔にたたずむ女性が呟きを漏らす――この陽の落ちる一時なのだな、と。
頬を、傾いた紅陽で朱に染め上げた女性――あおは、湖のほとりを静かに眺めながら、ここで考えていたのだ。
森をも焼き尽くしかねない程の、あの魔法。木にもたれかかるように倒れこんでいた、異形の美少女。眼下に広がる、静かな湖。ほとりを駆け回る、羽の生えた子供達。
やはり幻想郷、なのだ。この世界は。
大魔法が駆使されながらも決着の付かなかった、あの死闘。それを目の当たりにしたあおは、逡巡のあと、彼らから距離を置くことを選択した。
きーご、DYから離れたのは、そもそも考える時間が欲しかったからなのだが、今となっては、何より。
最悪を、考えたのだ。
魔理沙に襲われるほどの“何か”を、しでかしたのだ。それ以上に問題なのは、魔理沙と渡り合えるほどの力を、持っているのだ。きーごは。
魔理沙の魔法を――通常弾幕だけでなくマスタースパークですら――、無傷で避けきったのではなかったか?
倒れていたのは、レミリア・スカーレットではなかったか?
もしかしたら、本当にもしかしたら。
スカーレットの名を持つ吸血の姫は、“誰に倒された”のか?
倒れたレミリアを見て取った魔理沙は、きーごへの攻撃を中断して、少女の傍らに駆け寄っていた。深紅の少女を襲った人物は、きーごではないのだと、確信していたのだろう。
あおには、それができなかったのだ。分かれてから数刻のうちに、人外とも言える能力を身に着けたきーごを、手放しで信じぬくことは、出来なかった。
きーごだけではない。既に別れたDYとて、力を得たとしたら、どのような行動に出るかは、簡単に想像ができる。出会っていないだけで、幾人もの紳士が幻想に入っていることを、心の奥底で感じていた。そして、感じざるを得ないのだ。彼らがもたらすであろう、悲観的な未来についても。
別種の意味で、信頼だけは出来る人物達なのだ……紳士と言う人種は!
帰る、積もりではあった。
幻想を抜け、現実へと孵るのならば、方法はいくつかあった。
それを理解しながらも、躊躇しているのは。
もし、彼、あるいは彼らが異変だと言うのであれば。止めねばならないのだろう。
誰かが。
水面に映るあおの表情からは、彼女の心の中までは読むことが出来ない。だが斜陽を受けたその面持ちに、どこか決意を感じられると言う者がいたならば、それは気のせいではないのだろうと思わせる程の気概を、立ち上らせていた。
細くしなやかな腕を胸の前で組み合わせ、左手であごを撫ぜながら、あおは考えていた。幻想に入ったのならば、きーごがそうであるように、なにがしかの能力を得られるのかもしれない。あるいは、それを凌駕するような、そんな能力が。
だがいくら希望を募らせたところで、自らの埋もれた才能を開花させることが至難であることは、数多の文書――漫画やライトノベルと呼ばれる、一種の魔術書――で言及されているところだ。
湖上でくるくると飛び交う妖精達に目を細めながら、熟考するあおの背後に、突如として寒気を催すような気配が顕れた。
漆黒の濃霧が周囲を覆い隠したかのような、どこか運命を予感させる、そんな気配が。
「あんたかい――、」
振り向いた中空に、巫女がいた。
白と紅で強調されたその巫女は、呆れたような、そしてどこか面白がっているような顔で、ぽっかりと空に浮かんでいた。
「――異変は」
傾いた日差しを受けてか、湖は霧の深みを増し始める。
異変呼ばわりされたと言うのにむしろ清々しい表情で、湖畔に目を移したあおは、二呼吸ほど時を置いて、囁くように呟いた。
「みずうみ」
「あ?」
つられて、か。巫女も湖に目を向ける。
傾ききった日差しが湖面を輝かせ、さざ波の反射光が影に紅い彩りを添える。
「この湖が溢れるとしたら、どんな時かしら」
「そうね」
考え込む面持ちで、ふよふよと漂う紅白少女。
あおは、立ちこめる霧にも見飽きた様子を瞳にたたえながら、少女の瞳をのぞき込むように見据える。
「春の長雨の時……とか?」
「そうそう、困るのよね。散っちゃうし。春が早いと花見分が足りないわ」
「夏の大雨の時……とか?」
「あー、宴会の最中に降り始めたり。雷は花火の代わりになるけど、嫌よね。あとは、」
いつしか霧は濃く、深い陽紫に立ちこめていた。
心が、痛い程に研ぎ澄まされていくのを感じながら、あおは目を細める。
あくまでも自然を装いつつ、肩より少し高い位置に漂う巫女のより上空へと視線を移しながら腕を解いたあおは、体を斜に構えた。
「巫女を500機くらい沈めた時……とか?」
「……異変ね」
夕暮れが夜に蝕まれる、一時の刹那。息を吸い込み、紫紅に染め上げられた一際大きい雲を見上げる。湖畔が、わずか数呼吸の間に闇に包まれてしまう、そんな時刻。
湖上の妖精も、今頃は住処にたどり着いている頃だろう。湿気を含む重い空気を、雑念と共に、時間を掛けて吐き出す。
ゆっくりと、心に覚悟の衣をまといながら、巫女の――どこか間の抜けた、しかし揺るぎのない真っ直ぐな――瞳を、再び見据えた。
お互いの視線が絡み付いた瞬間、同時に跳びすさった。
相手に対して右手方向に跳躍したあおは、後方に距離を取った巫女が、先程まで自分の立ちつくしていた位置を護符の火線で薙ぐのを見て、背筋が凍りついた。
勝算は、なかった。
空を飛ぶ巫女を相手に、ただの人間が勝てるわけもない。湖を背後に構えていることも不利でしかない。湖岸は若干ではあるが傾斜しているし、土は湿気でぬかるんでいる。
そして何より、――力が、ない。
一呼吸すらも自分に許さず、着地と同時に反対方向へと跳躍した数瞬後、またも火線が襲いかかる。一瞬の内に位置を切り替え窮地を脱したあおは、突如巫女へと突進した。
巫女が弾幕で勝負するというのなら、勝利の手段は数える程しかない。
それは例えば、“肉弾攻撃”による“身体的接触”――!!
しかしその行動は見透かされていたのだろう、巫女は護符をばらまきながら、空中に飛び上がることなく――手加減でもしているのか――難もなくかわし切り、有利な距離を模索する。
「へぇ、いい勘してるわね」
「ありがと。……博麗の巫女、よね」
「……あん?」
「被害者だと言ったら、信じるかしら」
「当たり前じゃない――この加害者め!」
「苦手なんだけど」
「犯罪が?」
「手加減が」
「……良い結界の肥やしになりそう」
「有機栽培結界?」
「産地直送よ」
「軒並み引っこ抜くか」
「犯罪者め」
位置取りを勘案している巫女の懐に、あおは対話で出来た一瞬の隙――地へと降り立った瞬間の出来事――を見逃さずに飛び込んだ。
踵で巫女の足を踏み抜きながら、全身の力で腹を殴り抜ける! 拳に走る鈍い衝撃を感じた瞬間、その感触が消え失せた。殴りつけたあおの右腕に――悪寒を感じるより早く飛び退いたにも拘わらず――光が収束し、破裂した。
無傷とはいかなかった。反応が遅れていたら、掌が焼けただれていたかもしれない。
だが、得たものは大きい。
広範囲霊撃(ボム)にも、“対処の仕方”はあるのだ。
「普通、」
目を丸くした巫女が、息を詰まらせる。
「今のって避けられないんだけど」
「普通じゃないのかも。って、思いたい気分」
「あなた、人間よね?」
「空は飛べないけど、多分ね。それはそうと……まだ?」
「そうねえ。……ただの人間なら、次で最後にしましょうか」
「もう暗いしね」
「知ってるわ」
「?」
「鳥目ね」
「あはっ」
距離を取ろうとする巫女に対して、足を鞭のようにしならせて攻撃を加える。巫女は流れるように繰り出される蹴撃を冷静にかわしながら、あおの周囲に光条の結界を張り巡らせる。
地を這うしかない人間では、到底脱出出来ない護符の網が、刻一刻と押しつぶすように迫り始める。通常弾を掠め(グレイズさせ)ながらも結界の粗を探し、最善手を探し出すあおには、結局は結末を先延ばしにするだけでしかないことが、良く判っていた。
地面から空中に伸び上がって張り巡らされた結界は、通常弾符ではなく、先ほどの霊撃に使われたものと同質の護符を使用しているのだと、あおは符に描かれた紋様から推察した。絶対に触れたくはないと思わせる霊力の奔流を網として、符は立体的な結界を展開していた。紡がれた光の柱は、あおを中心とした円柱ではなく、ベニヤ板を幾重にも貼り合わせたようないびつな形をしていることに、あおは気がついた。全能を以てすれば、終端までたどり着けるような経路を残しているのだと、そう感じられるのは、巫女の遊び心の顕れでもあったろう。
今からどれほどの最善手を尽くしたとしても、現在の駆動力、瞬発力を最大に引き出して結界の終端までたどり着いたとしても、その瞬間こそ巫女が張り尽くした罠の最終段階であることが、あおには漠然と理解できた。
とはいえ、――奔る。
思考すらなく、体の赴くままに、走り抜ける。
一瞬前に駆け抜けた場所を、護符がなぎ払う。
一瞬後に駆け抜ける場所が、弾幕で埋め尽くされる。
なびいた髪を光の網で焦がしながら、弾符の火線を駆け抜ける。
巫女の視線・反応から、二手、三手先の思惑を読み取り、刹那の時間で裏をかく。一手を追う度、取り得るべき未来をはぎ取られて行く感覚に、あおは不思議な高揚を覚えた。
その愉悦が招いた、反応の空白。
走り込む位置がわずかばかりずれた、その間隙。
次善であるにも拘わらず、最善ではなかったと言う、ただそれだけの、致命傷。
有無を言わせない護符の弾頭が、地面を打ち崩す。頬先を、陰陽玉が、残像を残してかすめる。足を止めたあおの目の前、霊力網を隔てたわずかな距離で、巫女は微笑を浮かべる。
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