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東京大学関係
東大現代文の漢字
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東大現代文の漢字
東大現代文の漢字(1979-2012)
全て「カタカナ」部分を漢字に直します。
2011を除けばここ10年とも5問です。上が新しいです。
2012
生物種の減少、資源の「コカツ」、廃棄物の累積などの形
人間の欲求を追求するための「コウリツ」的な手段と道具
脳内の推論、記憶、連合、類推に働きによって、「チツジョ」ある経験(知覚世界)へと構成される
私たちの生活に広く深く「シントウ」している
誰とも「コウカン」可能な、個性の無い個人
2011
水鳥が遊び、魚が「ハねる」
区分けされた皮の「ダンペン」を概念化した結果
風景は「ヨクアツ」的なものになってしまう
固有の履歴を積み上げることを「ソガイ」してしまう
2010
プライバシーのための「ボウヘキ」
個人が自らの社会向けの自己を「イジ」する
行為の矛盾や非一貫性を欺瞞ととらえて「コウゲキ」する
個人の身体の周りや「ヒフ」の内側とその私生活のなかにあった
プライバシー「ホゴ」の対象となりつつある
2009
未成熟なもの、「ギンミ」の足らないもの
「キリョウ」の小ささをも同時に印象づけている
断定しない言説に「シンギ」がつけられない
あらゆる評価を「カイヒ」しながら
完結した情報を「ジョウジュ」させる
2008
書かれたとしても、「サンイツ」し、無に帰してしまうことがある
経験を「チョウエツ」してはありえないのだ
別の微粒子を見出し、別の運動を発見する「キカイ」になりえた
「シンコウ」をもつ人々はそれを神の決定とみなす
何ら「ムジュン」することなく含まれている
2007
現代にまでうけつがれている「ツウネン」といっていい
固有の法則によって完全に「トウギョ」された-領域
機械的な媒体をとおして大量に「ルフ」するイメージ
乖離しがちであった理論と歴史的研究を、新たな「ユウワ」にもたらす手がかり
アクチュアルな現象を「ハイジョ」すること
2006
現在の社会は、すべて過去の遺産であり、過去が「チンデン」しており、過去によって規定されている
先行者の世界は「ゲンゼン」と実在する
妄虚でもなければ心理的「ヨウセイ」でもない
運命に「ショウヨウ」して従うことが期待されている
主要な宗教伝統は、まさにそれを「コクフク」する道こそ望むべきものとして提示する
2005
技術的に「タクエツ」している
技術の「ヒヤク」的発達
人間生活にもたらした「ケンチョ」な効果
人と人とが挨拶を交わすとき~彼等が「ボウシ」をとるとすれば
調和させて美しき「タマシイ」を作る
2004
権利を「シンガイ」している可能性
個が希薄化し「トクメイ」のなにものかに解消されていく
同一のものを巡る「コウソウ」を回避する
欲望の「ゲンセン」
ますます一層「ソクシン」されていくにちがいない
2003
この世に「ミレン」を残し続けることなく
大きな軍艦も「テイハク」できた
祀ってくれと夢や「タクセン」で要求したわけでもない
ジャンボ機の「ツイラク」現場
大地震の「ヒサイ」地
2002
もとよりそれは、「クウソ」な期待に過ぎない
制御しているかのように「サッカク」している
他者の「モホウ」によって獲得される
愛し合う二人の没我的「ホウヨウ」
2001
新人を「ゲキレイ」してくれる
十分な「ハイジョ」の歴史
言語の「フヘン性」を信じてやまない
二つの言葉を「バイタイ」とした感情
「ホウカイ」した家族の記憶
2000
「ビミョウ」な意味の差異
それが「キョクチ的」なものにとどまるからである
多くの種の存続が「オビヤかされる」
安定を「イジ」するように努める
種の存続のためにはしばしば個の「ギセイ」が要求される
1999
別の色で「ソめ上げる」
痛みが身体のそこかしこを突然「オソう」こと
一方が他方に密着したり「マイボツ」したりする
だれもが「ジメイ」のことのように言う
1998
「ゲンミツ」な意味
人格性の「コウソク」から解放する
領域を「カクチョウ」してきた
「ヒサン」だった体験
実存の思想を「キタえて」きた
1997
過去の実績を「カンアン」しながら
自らの「ゾクセイ」や過去の出来事
筋を「タンサク」するなかで
半ば「ボウキャク」していたりした事実
置かれている場合のみを「ネントウ」に置くこと
1996
「ミジュク」で不完全であった
役に立たない過去の「イブツ」に見える
脇道への「イツダツ」
以前は偏見によって「クモらされ」
1995
その「リンカク」と形状と特性
何を忘れ去ったのかさえ「ハンゼン」としない
物事との「コウショウ」が希薄であれば
あるいは不可欠の「ケイキ」としてそれを切り結ぶことがない
1994
どのような手段を「コウじれば」いいのか
消費が生活のすみずみにまで「シントウ」し
生活が失われていくことの「キケツ」である
都市の質を著しく「レッカ」させている
1993
彼らの意を「タイ」すること以外に自分が自分である理由などなかった
この方法の「タイキョク」にある
「シュツジ」を問うだけだった
自分自身の「ケツダン」にかかっている
1992
気づかれていなかった椿という植物の「イソウガイ」な姿形
現実像を発見し直すように私たちを「キョウヨウ」する
自分の感受性が「スンダン」され
彫刻家のノミの「ソホウ」さによって危うく枝を切りおとしそうな印象を与えることなどあり得ない
1991
とうとう「ガマン」できなくなって
「ボンヨウ」でたいくつ
たいくつな「シロモノ」
中途半端な「ダキョウ」
1990
四季折々の移り変わりを「エイビン」に映しだすこと
たとえば山口瞳の「アイセツ」きわまりない私小説集『庭の砂場』
「ヨクアツ」が解消される
この「ゼツミョウ」の幕切れ
1989
「ガンジョウ」な柵が張りめぐらされる
魚釣りや「サンサク」の憩いの場であった
地域社会崩壊への「ケイショウ」と受け止める
1988
断片的に「ギョウコ」した心
発見として我々の面前に初めて「ケンゲン」する
あやうい「キンコウ」の上
批判を「ケンキョ」な心をもって受け入れ
1987
英仏語は公式の通訳をつとめるほどに「ジュクダツ」
自分というものの姿が、彼女らとの会話の間に「ゲンゼン」として来ていた
圧倒的な「ケッサク」と世に称されるもの
自然にとって「コッケイ」と思われたら
1986
はるか上方から支配し、「ソウサ」しようとする
自然をさらに「ビサイ」に観察しても
いっさいの規則性を「チョウエツ」した大いなる偶然
1985
混沌たる感情に「リンカク」をあたえ
机の「ゲンミツ」な設計図
「シコウサクゴ」のすえに、ようやく自分の感情をいいあてた一連の言葉を見いだす
1984
「ヒダイ」した日常性の領域にまずます組み込まれていっている
麗わしい人間性の「ハツロ」というかもしれない
ブルジョワ精神が大衆的に「カクサン」した
知が修辞や物語を「クシ」する
1983
理想我にみずからを近づける行動を「ショウレイ」する
達成本位によって結びついた「トトウ」
日本人は「ジダイ」主義や権威主義に対して
1982
いろんな「クニク」の策が試みられてきた
社会的に「コウヨウ」をもつためにはどういう手続きが必要だったか
あたかも虚無への無償の奉仕に近い労苦は「シャショウ」され
1981
風に吹かれるがままに「シサン」して
現実の重みにはとうてい「ヒッテキ」しきれない
ロマンチックなところは「イゼン」として残っている
1980
自虐的ともいえるほどの「ジコギセイ」
みごとに勝利をおさめるというのは「シナン」のわざでもあった
おおむね「ゼック」してひとこともいえなくなってしまう
1979
※この年の原題は「漢字の読みを記せです。文語文になっています。」
学力は同程度として「コウオ」のかくまでに…両者の性質のそれほどに異なるがため
「カンゲン」すれば漢字に所謂文学と英語に所謂文学とは到底同定義の下に
留学生の「チジョク」なるやも知れず
消費し得るすべての費用を「サいて」参考書を購(あがな)へり
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最終更新:2013年02月17日 16:35