意味・定義
永遠不変の自我を否定することで、実存としての自己まで否定してしまうこと。
デカルトになぞらえていえば「我は思いと肉体のみ、ゆえに我無し」
歴史
部派仏教では自己を五蘊(肉体、感覚、表象、意志、認識)に分析することで無我を説いた。
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」に対してヒュームは自己を「経験の束」と呼んだが、
その「束」とは何かについて哲学する者は啓蒙主義時代からポストモダンを通じて現れなかった。
反論
- それでも私は存在している。
- 無我論は単なる言葉遊びにすぎない。
- 自己とクオリアは、あきらかに同じ硬貨の両面です。体験する人をもたない自由な立場の感覚やクオリアというものはありませんし、
感覚体験や記憶や情動がまったく欠けた自己というものもありません。」(ラマチャンドラン)
- 不本意ながら、ヒュームはなにかを見落としているという結論に私は達した。(中略)
すべての経験は、どんな瞬間でも一つの統合された意識野の一部として感じられるのである」(サール)
- 全体とは部分の集合以上の何かである(アリストテレス)
最終更新:2009年04月29日 19:22